★舟木 一夫★

本名、上田成幸。昭和19年12月12日生まれ。愛知県出身。
昭和38年6月、橋幸夫の対抗馬として日本コロムビアから「高校三年生」でデビュー。一躍脚光を浴びる。
そして、翌年クラウンからデビューした西郷輝彦とともに、一大青春歌謡ブーム築き上げ、橋幸夫を含め「御三家」と言わしめたのはあまりにも有名。
私(青春太郎)としては、三田明を加えた四天王をもってしても、デビュー曲から、俗に「学園ソング」と言われるシリーズを歌う舟木が、一番「青春歌謡」の王道としてそれらの歌が好きだ。
現在も、カラオケで歌っても、私は一番しっくり来るのが舟木の歌である。

   

   
<歌手生活30周年記念「舟木一夫大全集」(日本コロムビア)CDジャケットより>

<舟木一夫への熱いメッセージ>

●舟木の歌は、いつ歌ってもいい! <青春>(2001)
今、ボウリングのサークルに入っていて、月1回月例会をやっているんですが、終わった後の打ち上げ会では必ず「仲間たち」「修学旅行」「あゝ青春の胸の血は」などを歌います。これが結構リズミカルで盛り上がるんです。いい歌というのは、いつ歌ってもいいもんですよね。
●生きててよかった。 <隼>(2001)
私のニックネーム「隼」は、舟木一夫の「北国の街」のB面「はやぶさの歌」から付けました。映画の中でも歌われています。この歌は、私の中学3年生のクラスの人が聞けば、僕を思い出してくれる歌でもあります。最近ネット上で中学1年の同級生と再会することが出来ました。凄い時代になりました。生きててよかったです。
●高校三年生で何故「水色のひと」? <青春>(2001)
舟木の華やかなデビュー曲「高校三年生」のB面曲(今で言うC/W)の「水色のひと」。しみじみとしっとりと聴かせる、バラードのいい歌です。今更思うのですが、なぜ「高校三年生」のカップリング曲がこの歌だったんでしょうか?A面曲とは、あまりにもイメージがかけ離れて過ぎています。すごく大人の歌です。高校三年生が歌う歌ではありません。(笑)ひょっとして、舟木の歌の中で私のベストワンかも知れません。
●突然「♪な〜んて ステキな よ〜るだろう〜」 <青春>(2001)
私が後にも先にも御三家の生のステージを見たのは1回限り。それは、高校三年生の秋でした。私の田舎(北陸の山奥の小さな町)の市民会館に「舟木一夫」がやってきたんです。親戚ぐるみで、ワクワクして「舟木一夫ショー」を観に行きました。そしていよいよ開演。暗転でまだ緞帳が下りている舞台の影から、イントロ(演奏)もなく急にア・カペラの響きのある低音でこのフレーズが流れたんです。「♪な〜んて ステキな〜 よ〜るだろう〜」。隣にいたおばちゃんなんか、思わず「キャー」って大声をあげ、私はその声の方にビックリ!その後のステージ内容は、今ではほとんど覚えていません。でも、冒頭の「哀愁の夜」のこの歌い出しは、今でもはっきり耳に残っています。今思えば、どうということのない演出なんでしょうが、当時の私にとっては、それほど印象深い演出でした。
●あの頃のままの青春歌謡よ永遠に。 <青春>(2001)
舟木一夫の歌は大好きなんですが、往年の舟木の歌唱はあまり好きになれません。歌を崩し過ぎます。それにやたら最後を伸ばして歌います。(音程を揺らすのは彼の個性としても)TVを見ながら、私たちが一緒に口ずさむのは、あの頃のあのままの青春歌謡なんです。あの頃と同じように、同じメロディーで歌ってほしいんです。それを崩されると興ざめしてしまいます。舟木さん、お願いしますよ〜!
●「あゝりんどうの花咲けど」の思い出 <隼>(2001)
私には「はやぶさの歌」の思い出がいっぱい詰まっている中学3年のクラスがあります。そのクラスに好きな子が二人いました。一人は、物を書くことが好きで、ノートや紙切れに面白いことを書いてはよく笑わせてくれました。もう一人は全校2100人中ナンバーワンの美人でした。別に付き合っていたわけではなく、親しくしていただけなんですが、友達にはよく見せびらかしていました。いやな奴なんです私は。
しかし、きょうお話しするのはこの二人ではありません。もう一人、卒業間際に好きだったんだ、と気付いた女の子のことです。そのクラスは全校でも模範的なクラスで、学級新聞のコンクールで優勝し、運動会の応援合戦でも優勝するという、団結して何かをするということにかけては実力以上の力を常に発揮していました。
秋の遠足のことです。貸切バスの中、私たちのクラスは「はやぶさの歌」の合唱で歌合戦が始まります。それからは、西郷輝彦、三田明、吉永小百合の歌を歌う者と、いろいろでした。私はトップで「はやぶさの歌」をリードしていたので遠慮していたら、一人の女の子が「あゝりんどうの花咲けど」をリクエストしてきました。突然そんな歌うたえって言われても、と思いつつも、しっかり三番まで歌いきりましたが、当時は歌詞ブックもなく、よくそんなことができたもんだと、今では不思議に思っています。しかし何故、その子が僕にリクエストしてきたのかはよくわからないままでした。
秋も深まったころのフォークダンスの校内大会。その練習のときに、担任の先生が何故か僕たち二人と何人かに、模範演技をするように言いました。はにかむまもなく握った手、僕はその感触を今でも覚えています。何と冷たい手だろう。緊張している二人。そうした中で、一通りみんなに見てもらって、すぐクラス全員で練習を始めました。その大会もやはり優勝。
正月になって来た彼女の年賀状に、「あゝりんどうの花咲けど」のことが書いてありました。「どうしても歌ってほしかったので、ごめんね」というようなことです。この賀状は嬉しかったけれど、一方で意識し始めている自分に気付いてもいました。しかし、それからは私立高、公立高の受験で忙しい日が続きます。それが終わると卒業式。その日、式が終わってからサイン帳を持って彼女が現れ、最初のページに僕に何かサインするよう言いました。そんなもの何も用意していません。気のきいた言葉も浮かばないまま、「あゝりんどうの花咲けど」の3番の歌詞を書き、「元気でね」の言葉を添えておきました。それからの彼女のことは知りません。もう少し自分に素直になれなかったのかと、そのころは随分自分を責めもしましたが、今では、それでよかったと思っています。そのお蔭で「あゝりんどうの花咲けど」の淡い思い出が残っているのですから。
「♪白樺道にひとり聞く 歌はかなしき風の歌 あゝりんどうのうす紫の花咲けど 初恋あわれいまはただ 誰に捧げんこの花ぞ」(詞・西沢爽)
●「はやぶさの歌」と「仲間たち」・・・。 <ヨネゾウ>(2003/10/30)
高校一年のとき、歌の好きな仲間5人が集りグループを作って、四天王の映画を見に行ったり、ベストテン(ラジオ)の予想をしたりして楽しんでいました。でも、そのうちの一人がデザインの勉強のために東京へ行く事になりました。そこで私たちは、二泊3日のお別れ旅行を計画し、東京に近い伊豆へ行く事にしたのです。それぞれの思いを胸に秘めながら、いつものように四天王の歌を唄いながら伊豆へ向かいました。色んなところを観光し三日目、とうとう別れの朝がやってきました。彼を駅まで送り、列車を待つ間、舟木ファンの彼が好きだった「はやぶさの歌」と「仲間たち」を大合唱しました。そして、彼は東京へ旅立っていきました。今、彼がどこでどうしているのか分かりませんが、時々そのことを思い出すと胸が熱くなってくるのです・・・。
●唄う喜びは、舟木一夫の歌からでした。 <床マサ>(2003/10/31)
中学や高校の修学旅行やバスの遠足があると、必ずガリ版印刷でクラス独自の歌本を作って、行き帰りのバスの中で唄いました。その歌本作りにかかわるのは、やはり学級委員長が中心で、私はその手の肩書きを一度も手にすることのない人生を送っていたのですが、こと歌本作りになると学級委員長の周辺をうろうろして、舟木の歌が入ってるかなぁ?・・・と覗き込んではチェックをして、「今回はこの歌は俺が唄う!」って決めたり、入ってなかったりしたら「この歌入れておいて」と頼んだものです。実はあまりどんな歌を唄ったのか記憶がはっきりしないのですが、「高原のお嬢さん」を唄った時に、みんなから拍手をもらって唄うことにより目覚めてしまったことを覚えています。最近はカラオケやバンドで歌を唄って楽しんでいますが、その唄う喜びを覚えた最初は、舟木一夫の数々の歌からでした。
●舟木の優しさと逞しさ・・・。 <ゆり>(2003/11/01)
彼は、歌がタダタダ好きだったのでなく、幼い弟に自分と同じ貧しさを味わわせたくなくて、歌手を目指した。それが打算と言われようが、私にはそんなところが彼の底知れぬ優しさに思えるのです。私は少女時代に、太宰治に心酔していて、憧れの舟木が、そのまま太宰の道を辿るのではないかと恐れた時期もありました。しかし彼はエリート、太宰にはない逞しさと幸運のおかげで蘇えりました。
絵がちょっと得意だった私は、学校の黒板に舟木の似顔絵をいつも書いていました。その頃の級友から最近同窓会の知らせが来て・・・。彼女に「私は舟木さんと名前の一文字が同じなんだよ〜!」と、自慢していたことを思い出しました。