★青春仲間の「ふるさとの話」★

平成17年(2005年)1月16日・・・。
北原謙二さんが、惜しまれつつこの世を去りました。
そこで、彼のヒット曲「ふるさとのはなしをしよう」にあやかって、
青春仲間の皆さんの「ふるさとの話」を募集。
多くの皆さんが、それぞれのふるさとを語ってくれました。(^_^)v
ひょっとして、あなたと同じふるさとの人が・・・。

<募集期間:2005年2月8日〜19日 投稿順、敬称略>

ひな
ひなの「ふるさと」・・・大阪市内〜商店街の裏通り〜幼稚園の頃から喫茶店に行ってました^^;
♪ヘイ! ちっちゃな頃から悪ガキで 15で不良と呼ばれたよ〜(冗談)
 ナイフみたいにとがっては 触るものみな〜傷つけた〜♪(笑)
お隣がパーマ屋さんで、ただでパーマをかけてもらったり〜(小鳩くるみちゃん風に)(笑)(ちなみに今もその髪型ですけど^^)金魚すくい屋さんする、おばちゃんちで一日中金魚すくいしてたり〜玉子屋の、おっちゃんのバタコの後ろに乗せてもらったり〜町工場をしていた父の力コブを見て育ちました。その父も、もうすぐ83歳(元気です)娘孝行してくれています^^

かん
♪〜四面山なる 我が故郷〜私が生まれ育った所はその昔、社会科の教科書にも出ていた銅山の町・足尾(栃木県)です。そこに18歳まで住んでいました。東と西を小高い禿げ山2つに挟まれた足尾町は南北に細長く伸び、北に聳える松木山を隔てた向こう側には、あの日本の代表的観光地”日光”があります。(公害の発祥地として悪名高い渡良瀬川は、東の山の一つ向こう側の山脈の谷間を流れています)。故郷の四季。春。松木川の下流域には要所要所に桜の木が植え込まれていて、当時は毎年通学路を楽しいものにしてくれていました。初夏には、夕立。夏の盛りには町のあちこちにひまわり。秋は近所の空地のそこここにセイタカアワダチソウと、晩秋にはススキが。冬は木枯らしで、厳冬期には松木おろしに乗った粉雪が極めて突如&不定期に舞い降りて来たりしました。♪〜ウサギ多いし かの山〜この歌詞とは少し異なるふるさとの風土ですが、小学校低学年までは外が真っ暗になるまで良く遊びました。その季節になると、蝶々やトンボなどが町中至る所に飛んでいました。休みの日にはお弁当を持って友達と一緒に山を越え、渡良瀬川にメダカやかじかを、又その近くの小沼にはおたまじゃくしやカエルを、取りに行ったりしました。道中の山林では素手でセミを取ったりもしましたっけ。鉱山の宿命。私が生まれた頃、銅鉱はもう枯渇に近かったようです。ならばと町は、輸入銅の精錬等に着手して必死でがんばっていたようでした。当時、精錬所の煙突から排出される亜硫酸ガスは風向きによって遊んでいる私達子供にもろに襲い掛かって来ました。が大人達は皆、一様に知らん顔をしていたように思います。昨今ではとても考えられない事です。が、当時の大人たちの心情も、今は分かるような気がします・・・。 現在、足尾の人口は4千人弱でしょうか(?)。全盛時代の約10分の1です。過疎化まっしぐらですが、両親と祖父母と兄が、足尾の地に眠っています。


私の「ふるさと」は「ハワイ」です。「ハワイ」と言っても鳥取県の「羽合」です。σ(^_^;のオヤジが鳥取県東伯郡羽合町というところの出身なのです。2、3度行きましたが、σ(^_^;は大阪生まれです。ですから、σ(^_^;には「ふるさと」はありません。まあ、こころの「ふるさと」と言うのはあります。高校のときからずっと登っていた北アルプスですね。白馬、剣、立山、槍、穂高、三俣蓮華、蝶、常念、笠・・・。最近は足腰が頼りないのでもっぱら低山専門です。


ハヤブサの「ふるさと」も…大阪市内〜ひなちゃんのふるさととは直線で1kmもないところに住んでいました。ひなちゃんの最寄り駅も繁華街だけど、わたしはその次の駅にある繁華街でよく遊んだのを覚えています。吊りピン式のボウリング、70mmが上映できる映画館。寄席なども一時ありました。ボウリング場には近所のおばさんが勤めていたので、半額引きで、おじさんが税務関係の仕事をしていたので、映画館へはただ券で入っていました。「マイ・フェア・レディ」「素晴らしきヒコーキ野郎」「十戒」・・・み〜〜んな、ただで。でもレコードだけはひなちゃんの駅の方で買ってました。なぜかというと、2軒あったのと、レコード袋が厚手でいいやつだったのがその理由。少ない小遣いで買うレコードです。わたしには宝物と同じ。だから同じ値段なら、やはり、いいレコード入れの方が欲しかった。中学生、高校生のころに一番レコードを買ったように思います。その頃は痩せていました。なぜか髪の毛が多かったので、散発屋さんに行く度にすいてもらっていました。そんな高校生がレコードを買いにいくのを、ひなちゃん、見なかった?いま、わたしが幼少期を過ごした町に、トラ子さんが住んでおられます。そこから、2つ、3つ都心寄りの駅に柱さん、ヨネゾウさんがおられるはず。ハワイ? あー、あったあった、その駅前にもハワイが。

イマ
私の生まれは現住所の隣の区、文京区です。埼玉県に疎開をし、港区の青山に戻りました。6歳の時に現住所に引っ越し、現在に至っています。だから故郷と云っても、特別皆さんのような想い出に残るような風景は浮かびません。只、自転車で墓地の中を走り回り、鬼ごっこをしたり、歩いて浅草まで行き、友達のお父さんが勤めている映画館で映画を観たりした想い出はあります。皆さんのように、自然の風景の想い出が羨ましいです。

ゆうこ
故郷は6才までの福井(青春さんと同じで嬉しいです)と、結婚するまで居た大阪ですが、実家も引っ越したので、もう家はありません。去年の10月頃、急に行きたくなって懐かしい道を歩いて来ました。まずは、よく遊びに行った「万代池」友達とよく遊んだ大きな木を見たかったけど、無くなってて淋しい気持ちになりました。商店街や家の近辺はもちろん、路地裏を通ってみたり、通学路も歩いて、最後は「住吉大社」です。お正月と夏の夜店は賑やかで楽しかったなぁ〜〜〜。町並みも、あまり変わってなく、スッと溶け込める空気を味わいながら「故郷は良いなあ」と感じた一日でした。
福井の「好物ベスト3」です。1.水ようかん 2.こごめ餅のお雑煮 3.あべかわ餅・・・食べ物の話になりましたが、どれも私の大事な故郷の味です。

マイ
故郷は福島県の海沿いのいわき市の中にあります。市は広いのでその中でも山に囲まれたところです。子供のころ、商店もあまりなく、特に肉屋がなかったので同級生も私も背が小さく少し残念です。また周りが山だらけで特に登りたいという気もありませんでした。一度一人で山に向かったら夏なので、蛇が次から次に現れてすぐ家に帰った思い出があります。蛇をみるとぞっとしてしまうのです。そういうわけで、子供のころから都会志向で高卒後、すぐ東京にきて今は北関東に住んでいます。なおうれしいことに田舎に両親が健在なのでたまに帰郷するときは必ず「メヒカリある?」と確認してからかえっています。’メヒカリ’という私が日本一美味しいとひそかに思っている魚を用意するようお願いするのです。他はそれほど美味しいものはありません。

タケ
私のふるさとは、新潟の雪深い田舎です(^_^)今年も大雪で大変みたいです。昨年(平成16年)大地震が有った近くです(ーー;)チョット震源地から離れて居たので家は大丈夫でしたが・・・田んぼは被害に有ったと兄がいっていました。お米がとても美味しいのが取れまよ(^_^)vホントに田舎で小学校は分校でした。中学は、4km先まで歩いて通いました。周りはみんな農家なので田植え休み稲刈り休みなどが有ったり・・・その分夏休みが、短いでしたがね〜でも、あの時は、大変だとは思いませんでした。(それなりに楽しんでいました)今の時期、雪がやんで晴れた時雪がキラキラ輝き凄く綺麗ですよ(*^_^*)春は、新緑か綺麗で、夏は夜は涼しく星が凄く綺麗で子供達もビックリするくらいです。秋は、紅葉がきれいですよ(^_^)v年2回ぐらい母が元気なので帰ります。

はじめ
私のふるさとは、生まれ育った愛媛の松山と十代に過ごした東京の蒲田が有りますが、今回は、生まれ育った愛媛について述べます。湯の町道後と言われる日本最古の温泉(道後温泉)が近くにありますが、以外にも本館の湯に入った事は有りません。又郊外にも多くの温泉施設があります。それに高校野球が盛んで、春夏の全国制覇7回の松山商業、各1回の西条、宇和島東、済美、後、今治西、新居浜商業、新田、川之江 等が上位進出しております。お土産ベスト3は(坊ちゃん団子、薄墨羊羹、母恵夢)でしょうか?特産品としては(五色そうめん、花かつお)が人気が高いですが、私は3人兄弟の末っ子として生まれ結構健康に育ちましたが、自慢にもなりませんが、勉強はしませんでしたので体育、音楽、技術化工が良くて、走る事が得意でしたが、受験に必要な科目は全く駄目でした。という事で世間一般に言われる勉強の出来ない子供でしたが正義感が強くて弱い者いじめだけはしなくて番長クラスと絡んでましたね。が幼い頃に姉2人を亡くし、それからは過保護に育てられたせいか、益々我がままな性格になり悪い事はしないものの勉強は一切しませんでした。でもここ数年の間に両親を亡くし親の有りがたさが良く解りはじめました。皆さんもご両親を大切にして下さいね。よって兄弟、両親を全てなくして、又私も病気療養してる時(1年半前)にこの青春掲示板に巡り合い慣れないパソコンに初めて向かい合わせた訳です。よってこのトビは今は生活に欠かせないモノになっておりますので、いつまでも続いてほしいですね。青春さん初め皆さん方には、時には無意識のうちに失礼な事も述べているかも解りませんが、一人っ子のわがまま男に免じてお許し願ったらと思います。長くなりましたが、この辺りにて終えます。

ゆり
♪私が 生まれて育ったところは どこにもあるような 下町のはずれ〜〜
 赤いはなおの ジョジョ履いて〜 缶蹴り、メンコに ゴム跳び〜〜
 痩せて カサカサ霜焼け、木登り上手〜〜〜
 膝小僧には 擦り傷、赤チン模様〜〜
 幼いあの頃に 戻りたい 戻りたい もう一度〜〜〜〜〜〜

林檎
ふるさとのある皆さんが羨ましい〜ですねぇ〜林檎は5才からず〜と今のところに住んでいますんで、ふるさとは無いんです〜〜(^_^;)実は中・高生のとき東京に憧れて、卒業後上京するつもりだった〜でも病弱な母親をおいて出ていけなかった。母が元気だったら多分林檎も今頃は東京近辺に住んでいたかも〜〜〜そしてオフ会にも参加して・・・・うぅ〜ん?(^_-)-☆ そして林檎のふるさとは「夜景が綺麗で魚貝・・いか、うに、かに、その他にも美味いものがいっぱいあるでよ〜〜」なんって言ってたかなぁ〜〜なんって思ったりします。


私が道産子なのは皆さまご存知かと思います・・・。北海道のほぼ中央になる、上川盆地の中の山奥です。北海道の中でも、雪が深いのと寒さが厳しいので有名です。冬は、旭川、午前6時、気象台の気温が「-25〜-29℃」の時は学校は、1時間遅れで始まり「-30℃以下」の時は、休校になると決められておりました。寒い日の朝は、ラジオのニュースを聴くのを欠かせません。吹雪の日は、小学生は体育館に、地域別に集まって、集団下校で6年生〜1年生まで一緒に帰ります。私の住んでいた部落は、戦後の開拓部落で、部落には電気が来ておりませんでした。ランプの灯は今の豆電球よりも暗いです。小学生の時は暗くなったら、寝かされました。布団の中で、ラジオから流れてくる紅孔雀・七つの誓いなどの放送を聞いていました。秋になると、熊が出るので、私の部落の人は、集団下校で6年生〜1年生まで一緒に帰ります。トーフ屋のラッパを鳴らしながら帰ったものです。そうそう、ニッポン放送の、午後、哲ちゃんの番組で、『我こそは山奥』の応募に電話で応募して、「準山奥大賞」を頂いて、1万円頂きました・・・。まだ、まだ、いっぱい有るけれどこれくらいで・・・。

あっきー
私は大阪の阿部野で中三まで過ごし高校、大学時代は北大阪の茨木で過ごしました。やはり阿部野が懐かしく思い出されます。私の家は長屋で道も狭かったけど当時は車は通らないからその道が遊び場でした。べったん(東京じゃメンコかな)ビー玉、ケンパ(石蹴り)、缶けり、縄跳び、凧揚げ、コマ回し、紙芝居などで遊びました。それから大阪市内なのに当時は少し歩くと田んぼ、畑があって蝶々トンボ取り、蛙取り、原っぱがあったから野球もしました。夏には家の近くに夜店が出たし、小学校の校庭で消防署や保健所主催で雨の降る古い映画が上映されました、みんな夕方、茣蓙を持ってぞろぞろ小学校へ行ったものです。それから夏休みには浜寺水練学校に行って六尺フンドシを締めて海で泳ぎを習いました。そういえば、金魚〜金魚〜と売りに来てたし、ほっこ丸焼き〜や蕨もち〜なんて言って売りに来てたな。そうだ、癌で10年ぐらい前に亡くなった逸見政孝は同じクラスにならなかったけど、小学校中学校と同級生でした。フジテレビに乗り込んで「おい逸見、あっきーだけど覚えているか」と行くかな、しかし逸見は有名人になったからなと躊躇してるうちに亡くなってしまったな。残念、何でも善は急げですね。いやーまだまだ思い出はあるけど、思い出してると切りがないです。これぐらいにします。

ヨネゾウ
私には、帰るべきふるさとはありません。生まれたのは福岡県ですが、父が仕事のために長期滞在していただけで、生まれ故郷ではないですね。昭和29年に大阪の祖父のところへ親子4人転がり込みました。その祖父も横須賀で洗濯屋を営んでいましたのですが、魚つりばかりやっていて家業が左前になり大阪へやってきたそうです。32年に両親が離婚して、2番目の母の実家にお世話になり、その後昭和60年11月まで大阪市大正区で青春時代を過ごしました。子供が生まれたのを契機に今のところへ越してきて今年でちょうど20年になります。ですから、あえて「ふるさと」というなら大阪になるのでしょうか・・・そういう事もあって、昔からふるさとのある人がうらやましかった記憶があります。でも私は大阪という町が大好きです。一生大阪を離れる気持はありません。人情は厚いし(最近は少々怪しいですが(^^;))食べ物はおいしいし、おもろい町です大阪は。


僕のふるさとは、上州群馬です。上毛三山(赤城山、榛名山、妙義山)の一つ、明峰赤城山の麓で産声をあげ、この地でたくましく育ちました。ご存知のように、群馬は内陸特有の寒暖の差が激しく12月〜3月上旬迄、有名な空っ風赤城おろしが吹き荒れます。ですから天気予報の温度とは別に、体感温度は物凄く寒いです。冬群馬にいらした方は皆びっくりしますね。反面夏は猛暑の連続で日本列島で最高気温記録発生の常連県でもあります。でも静岡に次いで国内有数の日照時間が長い県でも有名なのです!地図を見てみれば解かるとおり、北(上)は新潟県上越国境から、南(下)へなだらかに、そして緩やかに利根川を中心に関東平野へと続いております。この上記二点を生かして、一年を通して野菜作りが盛んです。昨今話題になってる、名水も豊富で、どんなに夏に異常乾燥が続いても、野菜や水不足で深刻になったことはありません。何か県知事になったような気分?ですが我が誇り、群馬のセールスポイントでした。まだまだ温泉や観光地を述べ出したら切りがありません。もともと僕の最も得意とする分野ですので、悪しからずです。子供の頃遊んだ思い出は殆ど皆さんと同じだと思いますので割愛をさせていただきます。
♪小川のせせらぎ 帰りの道で 妹と取りあった 赤い野いちご
 緑の谷間 なだらかに 子馬は集い 鳥は鳴く ああ誰にも ふるさとがある ふるさとがある

ととろ
僕の故郷は九州の宮崎です。親父の仕事で転々としてました。8〜17才と、一番長く住んだところ・・・がふるさと?かな。ちっちゃな城山があり、その裾野にはずっと田圃ばかり。城山の向こうに、学校があり、町がありました。いつも、学校帰りには、まっすぐに帰らずに、アチコチと散策してました。みかんの季節には、必ず、みかん畑を通りながら・・・スイカも、サツマイモもよく頂きました。時々、夜に行われてた寸劇には”スイカどろぼう”がよく登場してましたっけ。でも、そんなに、罪の意識はなかったように思います。。。。。ね。その町も、今は合併で揺れてるみたいです・・・・・
♪ながれるくもよ しろやまに のぼればみえる きみのいえ
 あかりがまどに ともるまで みつめていたっけ あいたくて
 ああ せいしゅんの おもいでは わが ふるさとの じょうかまち

ウメイロ
僕のふるさとは、ずっと住んでいる沖縄です。生まれたのは県北部の「やんばる」(山原)と呼ばれているところです。そうですね、本部(もとぶ)町の「美ら海水族館」(ちゅら海)は、来沖された方ならご存知だと思いますね。その隣村で生まれました。自然豊かな、とでも言っておきましょうか。昔は葉タバコ生産が盛んでしたが、今は?すいかだと思います。みなさんのところで、今帰仁村のすいか、なんて目にする事はあるのでしょうか。僕は幼稚園から那覇なので、今では何かがある時に、親戚の家を訪ねる位なものです。そんな僕なので、少年時代に野山で遊んだと言う記憶はそうはありません。ただ、記憶の彼方から、うっすらと手繰り寄せられることが一つだけ。集落の外れに、石で囲まれた水汲み場がありました。湧き出る水の最初の池は飲み水用で、そこは汲むだけの、神聖な雰囲気の場です。溢れた水はその隣の池(畑や家畜の飲み水?)に、更に三つ目の池が水浴びの出来る場所だったような、そんな記憶です。最初の池には「てながえび」が棲んで居て、誰も居ない早朝の時間を見計らって、兄達とそれを捕りに行ったりするのはわくわくしたものでした。一昨年の夏に、何十年ぶりかでそこへ降りてみましたら、雑草が生い茂り、荒れた感じがしていました。あのてながえびは数匹居ましたが、灌漑用水の取水だと思われるエンジンが鳴り響いていました。沖縄では○○郷友会というのが各地域ごとに組織されていて、割と活動は盛んです。那覇やその近郊に住んでいる町や村の出身者が、郷土を想い、連帯を深めようと、そんなようなことですね。その会の下には、更に各字(集落)ごとの会があって、字名の付いた△△郷友会って活動もやっています。月に一度は定例で懇親会(飲み会)があって、そこでは相当古い曲からちょっと古い(そうかな?)青春歌謡まで、みんな楽しく飲んで歌っています。幼稚園の時に家族で引っ越し、那覇に住んでもうそろそろ50年に近付いてきました。なので、僕には那覇もふるさとです。この4、5日は気温が23〜4度、会社でも車でもクーラーです。昨夜の国際通り、半袖の人を結構見かけました。暖かいと言うより、暑い沖縄です。今年は2週間以上も遅れていた桜の開花、それももう終わりの頃になりました(沖縄の桜前線は南下です)。

青春とは何だ
静岡は館山寺のふもとの緑あふれる疎開先の田舎町で産声をあげ、物心付く前(正に時代は終戦直後の混乱真っ只中)には一家揃って上京しました。そして、幼くして両親を亡くした後は、いろいろ事情があり一人暮らしを強いられながら私は都内を転々としておりました。中学まで過ごした西荻窪吉祥寺から始まり、高校時代は代々木新宿、大学時代は下落合での寮生活、その後は府中赤羽青山麻布茅ヶ崎、そして現在に至っております。なので、ヨネゾウさんと同じく私には世間一般に言われる帰るべき「故郷」と云うものがありません。
♪花の都で 切ない時は いつも偲んだ 山川なれど
 さらばおさらば 故郷さん 逢いにきてみりゃ 風吹く村よ
 今じゃ今じゃ今じゃ 甘える ああ 親もない

迷いネコ
私が生まれて育ったのは、東京の練馬区で〜す。(=^0^=)/今でも春になると実家には、ネコが生まれた時に植えたという桜の木が元気に綺麗な花を咲かせてくれています。幼い頃はまだ家が平家だったので、兄の真似をしてハシゴをかけて屋根に登り澄みきった空と武蔵野の風景を堪能していました。自然も沢山残っていたので、蝶々、蝉、お玉杓子にザリガニ取りも結構やっちゃったりして・・・これも兄の影響大ですね。そして練馬駅のすぐ側には、当時は東映映画館と日活映画館がありネコは良く小さい頃に東映に連れて行ってもらい、美空ひばりさんのお姫様役の時代劇を見たのをおぼろげですが、憶えています。小学校には薪を背負って本を読んでいるあの二宮金次郎の銅像があり、冬には雪が降るとめずらしい為か、授業を変更して雪合戦をしたんですよ。まだまだのんびりとしていましたね。今はどうなのかな?夏はなんといっても盆踊り・・・今は練馬文化センターになりコンサート等が模様されていますが、その昔はカネボウの工場があり盆踊り大会が一般開放されて繰り広げられていました。ネコも中学時代は女の子らしくゆかたを着こんで、憧れの人が来ていないかななんてね。♪〜(=^ε^= )今思えば山も海も温泉もない町だったけれど、まだまだ離れずに懐かしいお友達が住んでいる練馬はネコにとってはおもいっきり故郷です。

サンタ
私、生まれも育ちもここ東京の下町です。昔は「0メーター地帯」と呼ばれていまして台風が来ると次に日は先生がその被害をまとめていました。「床の下まで水が来たお家」、「床の上まで水が来たお家」とアンケートを取っていました。その所為か分かりませんが、夜には街灯が点きますし下水は完備されていました。二十歳を過ぎ品川区の戸越で働き始めたのですがこの時初めて「肥」の臭いを嗅いだのです。当時バキュームカーで汲み取りに来るのです。それにはビックリしました。あの臭いは忘れられません。窒息死するかと思いました。近くの親戚の家は木工業を営んでいて結構お金もあったらしくTVが早いうちからありまして毎日入りびたりでした。そのために映画館には数回しか行ってません。完全なテレビっ子でした。田舎独特の自然の雰囲気を知らずに育ちましたのでいまだに少しプッツン系のサンタです。

床マサ
私のふるさと静岡は近くに山、海、丘がある温和な土地です。そんな場所で生まれました。物心ついた頃から、夏は蝉取り冬は凧揚げで遊び、昭和33年に始まった月光仮面を隣のお金持ちの家のTVで見せてもらうようになると、日々の生活すべてが月光仮面で、風呂敷を首に巻いてお膳から机から飛び降りて学校へ行き帰ってきてまた飛び降りる(今は何故か高所恐怖症です)生活をして、小学高学年から東宝ゴジラ詣でが始まり中学から高校にかけては日活の青春映画と渡哲也の無頼シリーズ東映の網走番外地と昭和残侠伝シリーズ東宝の若大将シリーズを街の中心街の封切館でなく郊外の少しアンモニア臭?のする3本立て二流館で見ていました。TVは歌番組をよく見るようになり映画と合わせて御三家〜GSに移り我がふるさと古庄を(こしょう)と読み違え胡椒はペッパーで生まれた時のままの静岡でGSペッパーズ50過ぎて演っています。私がよく行った二流館も今は一つも無くなってしまいましたが夏になると蝉を聞きながらクワガタを飼って遊んでいる・・・。事件でも起こして家宅捜査されたらかなりヤバイオヤジになってしまいました。

青春太郎
♪四方(よも)の山 そよぐ山風 清水(しみず)沸く 川のせせらぎ
 夕焼けが山並み染める 誰も知らないぼくのふるさと ふるさとのはなしをしよう〜

私のふるさとは、北陸は福井県の山奥の盆地村・・・。四方を山に囲まれ、湧き水が美味しく、春は一面緑に囲まれ、暑い夏は河原で泳ぎ回り、秋は山々は真っ赤に模様替え、冬はドカ雪が降る中スキーを楽しむという、まさに自然が息づいたふるさとでした。「小京都」と言われる町並みは、碁盤の目のように東西南北に幾筋もの通りがあり、どこへ行くにも「真っすぐ行って、右へ回って、左へ行って・・・」で場所が分かる小さな町でした。ここで高校卒業まで育ったのですが、その18年間に色んな思い出が作られた町でした。町の娯楽と言えば、映画館が2館のみ。確か、東映・日活系と東宝・大映系に別れていて、映画好きのおばちゃんに連れられて青春歌謡映画、日活アクション、東映時代劇、東宝ゴジラシリーズなどを楽しんだものです。今もふるさとには弟が住んでいますが、このところ久しく帰っていません。ふるさとは今・・・どんな町並みになっているのでしょうか・・・?